情熱。
情熱が足りない。
もっともっと、やりたいことを表面にだすこと、やりたいことをやるなんて言葉にするとなんて単純なことだと思うけど、現在の私のやりたいことって何だよ、と考える。
思考が曲がってきた。
将来的にみてやりたいと思ってきたことは本当に私のやりたいことなのかな。
ここ1、2年はインテリアに携わることをしたいと考えてきて、テキスタイルデザイン、インテリアデザイン、、、、デザインをやっていきたいと思ってきて、デザインについて浅はかだけれど考えてきた。
あくまで私の概念の中での言語表現としてデザインとアートという言葉を使いますが、
作家としての作品を作りたくはなくて、もっと多くの人に普及するデザインを作りたいと思っている。
けれど、言語による固定概念の枠の中の話で、やっていることは全然デザインじゃないのじゃないか、と。
まだ自分の作りたいようにやっている。
デザインとなると、もっと洗練が必要であるし、もっと考えなければいけない。
作品をつくりたくはなくて、でもデザインにはなりきれなくて、中途半端。
今日はサーフェスデザインの講評会だったけれど、その作品においても、他の作品にしても、中途半端。
今野先生の話にもう、がつんと頭をはたかれた。
私のやりたいことを考えて、その軸がもう中途半端。
何やりたいのかって、それは全て作り出したものに反映している。
学生だから今は、作品を作ることでいいと思うが、未来の軸がぶれてしまっては、どうしたらいいのかわからなくなって、アートとデザインの境界の線引きができなくなっている。
三原康裕氏にしたら、そんな境界なんて固定概念の固まりでしかなくて、無為なことかもしれない。
でも、それは私は成功者の意見だと感じた。
ものをだして、「説明はいらない。あなたの頭で考えて、本能で感じて下さい」それはデザインというよりはアートよりだと私は思う。概念の中で語るなら。
でも現実社会は言語社会なのだから、一種の理想論であり、それだけでいいわけでもないと思う。
話が逸れたが、迷いが生まれたということ。
指針がゆらいで、まっすぐ突き進もうとしていた道は本当にそれでいいかという疑問と自信のゆらぎ。
この課題ができなくてどうして前にゆけるのか、ということ。
不安でいっぱいなのだ。
無知を承知で今まで考えてきたことは、0に戻る訳ではないけれど、いうなれば「振り出しに戻る」状態。
自分のことなのに自分の中の本能の訴えすら聞こえない、見えない。
言葉が概念という捉え方はすごい三原康裕に影響されての考え方。
これからの私について考えを巡らした時になんとももやもやした不明瞭な頭なのか、今はもうギリギリの心境。
結局情熱が足りないってことなのか否か
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